追風(おいかぜ)―想いを、香りに。
ふと、誰かとすれ違ったあと。
姿はもう遠ざかっているのに、かすかな香りだけが、その人がそこにいたことを伝えてくる。
あるいは、久しぶりに訪れた場所で漂ってきた香りから、忘れていた記憶が突然よみがえる。
雨上がりの土。
秋の夜の木々。
古い家の畳。
祖父母の家で焚かれていた香。
旅先で出会った寺院の香煙。
香りには、不思議な力があります。
目には見えません。
手でつかむこともできません。
それなのに、ときとして写真や言葉以上に鮮明に、人の記憶や感情を呼び起こします。
日本人は、そうした「目に見えないもの」を大切にしてきました。
そして、はるか昔から、香りもまたその一つでした。
今回、KOHGA CULTUREが取り上げるのは、
「追風(おいかぜ)」
という言葉です。
そしてそこから始まる、これからの香りの文化の物語です。
「追風」という、美しい日本語
現代で「追い風」と聞けば、多くの人は、
「物事がうまく進む状況」
「自分を後押ししてくれる風」
を思い浮かべるでしょう。
もちろん、それも追風です。
しかし、日本語における「追風」には、もう一つ、とても美しい意味があります。
香りを運んでくる風。
国語辞典には、「追風」の古い意味として、物の香りを吹き送ってくる風、さらには衣服に焚きしめた香などを漂わせてくる風という用例が記録されています。[1]
平安時代の文学にも、人の姿そのものだけではなく、その人から漂う香りによって存在を感じ取る描写が現れます。
『源氏物語』にも「追風」にあたる表現が登場し、人がまとった香が、その人自身の気配や魅力を伝えるものとして描かれています。[1]
ここには、現代の「良い香りをつける」という感覚だけでは説明しきれない、日本独特の香りへの感性があります。
香りは、人より少し先に届くこともあれば、
人が去ったあとにも残ります。
つまり香りは、
「姿が見えなくても、その人やその場の存在を感じさせるもの」
だったのです。
香りは「見えない気配」だった
平安時代の貴族社会では、薫物と呼ばれる調合香が盛んに用いられました。
文化庁による香道の調査でも、奈良時代後期から平安時代にかけて、香木やさまざまな香料を調合した薫物が使われ、香を空間に漂わせたり、衣服や髪に香りを移したりする「空薫」が行われていたことが紹介されています。[2]
平安時代になると、香りは単なる生活用品ではありませんでした。
衣に香を焚きしめる。
部屋に香を漂わせる。
手紙に香りを移す。
そして、それぞれが自らの感性で香りを調える。
文化庁の調査によれば、『源氏物語』には薫物がさまざまな場面で登場し、薫物の調合そのものも宮中や貴族の家々で工夫されていました。[2]
つまり香りとは、
「何の香りを使うか」
だけではなく、
どんな人が、どんな季節に、どんな場面で、どのように香らせるのか
まで含めた文化だったのです。
「追風用意」という心づかい
さらに興味深い言葉があります。
「追風用意」
です。
『徒然草』には、人目の少ない場所であっても、女性たちが衣に香を焚きしめ、その香りへの心づかいを忘れない様子が描かれています。
「誰かが見ているから整える」のではありません。
誰も見ていないところであっても整えておく。
そこには、身だしなみだけでは説明できない感覚があります。
香りは、自分だけのためのものではない。
その場を共有する誰かへの配慮でもある。
自分が通り過ぎたあとに残す空気まで、美しくあろうとする。
なんとも日本的な美意識です。
大きな主張ではなく、ほのかな余韻。
目立つ華やかさではなく、後になって気づく心づかい。
追風という言葉には、そのような感覚が宿っています。
日本の香りは「嗅ぐ」だけではない
日本の香文化には、象徴的な表現があります。
香道では、香りを「嗅ぐ」ではなく、
「聞く」
と言います。
文化庁は、香道について、沈香や白檀などの香木を一定の作法に従って焚き、その香りを鑑賞する日本の伝統的な生活文化と説明しています。[3]
なぜ「聞く」のでしょう。
香りには、色も形もありません。
だからこそ、注意深く向き合わなければ、その違いは通り過ぎてしまいます。
香りに意識を向ける。
香りの中から何かを受け取る。
それはまるで、誰かの話に耳を澄ませるような行為です。
香りを一方的に消費するのではなく、
香りと対話する。
日本の香文化には、そんな感覚があります。
香りと文学が出会った文化
香道の面白さは、単に「香木の種類を当てる遊び」ではありません。
文化庁の調査では、香道の「組香」は香りの違いを聞き分ける遊戯的な側面を持ちながらも、香によって表現された文学的主題を鑑賞することが重要であるとされています。[3]
そこでは、
香り。
和歌。
古典文学。
季節。
物語。
記憶。
さまざまなものが結びついていきます。
つまり日本では昔から、
「香りによって何かを表現する」
という文化が育ってきたのです。
そして、その長い香文化の先に、現代を生きる私たちはいます。
では、現代の私たちは香りに何を託すのか
ここで、一つ問いかけてみたいと思います。
私たちが生きている2026年。
香りは身近にあります。
香水。
ディフューザー。
アロマ。
柔軟剤。
ルームフレグランス。
お香。
選択肢は、昔とは比較にならないほど増えました。
しかし一方で、
「なぜこの香りなのか」
を考える機会は、むしろ少なくなっているのではないでしょうか。
好きだから。
人気だから。
いい香りだから。
もちろん、それだけでも十分です。
けれど、かつて日本人が香りの中に季節や人の気配、文学や物語を感じ取っていたのだとしたら。
現代の私たちも、もう一度、
香りに意味を持たせることができるのではないか。
そこから生まれたのが、日本香雅文化協会が提唱する現代の「追風」です。
日本香雅文化協会が提唱する「追風」
ここから先の「追風」は、古典にそのまま存在した制度や作法ではありません。
古くからある「追風」という言葉と、日本に受け継がれてきた香文化の精神に着想を得て、日本香雅文化協会が現代に提唱する新しい香文化です。
その中心にある考え方は、とてもシンプルです。
「想いを、香りに。」
季節。
願い。
祝い。
記憶。
旅。
出会い。
別れ。
土地の風景。
人生の節目。
言葉にしきれない気持ち。
そうしたものを、香りとして調えてみる。
それが、私たちが考える「追風」です。
「あなたの香り」を決めるものではない
ここは、追風を理解するうえでとても重要です。
追風は、
「あなたには、この香り」
と、一人の人間に一つの香りを固定するものではありません。
人は変化します。
季節も変わります。
場所も変わります。
気持ちも変わります。
昨日の自分と、今日の自分でさえ同じではありません。
だから追風も、変わっていい。
春の追風。
旅立ちの追風。
結婚を祝う追風。
故郷を思う追風。
挑戦を始める日の追風。
大切な人を偲ぶ追風。
十五夜の追風。
雨の日の追風。
同じ人であっても、そのときの想いによって香りは変わっていきます。
追風とは、
人を香りで定義するものではなく、その瞬間の想いを香りに映すもの。
なのです。
香水とも、お香とも、少し違う
では、追風は香水なのでしょうか。
あるいは、お香の商品名なのでしょうか。
どちらでもありません。
香水は一般的に、人が身につけて楽しむ香りです。
お香は、香原料を焚いたり温めたりすることで、その香りを楽しむものです。
追風は、それらと競合するカテゴリーではありません。
追風で中心になるのは、
「どんな想いを香りにするのか」
という考え方です。
使用する方法や形は、その表現の一部にすぎません。
香りそのものを目的とするのではなく、
想いから香りを考える。
それが追風です。
たとえば「結婚」を香りにする
二人が結婚する。
それを香りにするとしたら、どんな香りになるでしょう。
華やかさ。
穏やかさ。
新しい生活への期待。
互いへの敬意。
家族とのつながり。
生まれ育った土地。
二人が出会った季節。
そこから香りを考えていく。
完成した香りには、
「結婚式の香り」
ではなく、
「この二人の、この日の想い」
が映し出されます。
数年後、その香りをもう一度聞いたとき。
二人はその日の風景を思い出すかもしれません。
香りは消えていきます。
けれど、記憶の中では残り続けることがあります。
追風が大切にしたいのは、そこです。
たとえば「旅」を香りにする
旅先で見た海。
早朝の神社。
山の冷たい空気。
古い町並み。
宿で過ごした夜。
旅から帰れば、風景は遠くなります。
写真は残ります。
動画も残ります。
では、その旅の「空気」は残せるでしょうか。
旅で感じたものを香りとして調える。
そして帰宅して、いつかその香りを聞く。
その瞬間、
「あの日の風景」
が、記憶の中から戻ってくるかもしれません。
それもまた、追風です。
たとえば「故人への想い」を香りにする
香と祈りには、長い関係があります。
日本への香の伝来は仏教との関係が深く、『日本書紀』には沈香にまつわる記録があり、供香として香が用いられてきた歴史があります。[2]
しかし追風では、
「故人にはこの香」
と決めるのではありません。
一緒に見た景色。
好きだった季節。
その人を思い出す場所。
何気ない会話。
そうした記憶をたどりながら香りを考えます。
悲しみだけではなく、
「ありがとう」
という気持ちを香りにすることもできるでしょう。
香りが立ちのぼり、やがて消えていく。
その儚ささえ、人の記憶や時間とどこか似ています。
追風には「正解」がない
追風には、最初から一つの完成形を用意しようとは考えていません。
なぜなら、文化は誰か一人だけが作るものではないからです。
京都には京都の季節があります。
東北には東北の風があります。
沖縄には沖縄の植物や風景があります。
海辺の町と山間の町では、人が思い描く「秋」の香りさえ違うかもしれません。
そして同じ土地でも、一人ひとり記憶は異なります。
だからこそ追風は、
全国すべてを同じ香りにする文化ではありません。
土地によって変わる。
人によって変わる。
時代によって変わる。
その余白を残したいと考えています。
「守破離」で育てる
一方で、「何でも自由」であれば文化になるわけではありません。
日本香雅文化協会では、追風を育てる考え方として、
守破離
を大切にします。
守―まず、知る
香材。
日本の香文化。
歴史。
安全な扱い方。
調合の基本。
そして追風の理念。
まずは基本を知り、型を学びます。
破―理解したうえで広げる
基本を身につけたら、
地域の文化。
季節。
芸術。
食。
茶。
花。
音楽。
旅。
さまざまな文化と組み合わせていく。
ここから、その人らしい追風が生まれます。
離―新しい文化へ
やがて、それぞれの地域や担い手から、私たちがまだ想像していない追風が生まれていく。
それこそが、文化が生きているということではないでしょうか。
伝統とは、変えないことだけではありません。
大切なものを受け継ぎながら、時代の中で新しい表現を生み出していくことでもあります。
目指すのは、「商品」ではなく「文化」
追風という名前の商品を一つ作れば、そこで完成。
私たちは、そうは考えていません。
目指しているのは、
「想いを香りにする」という行為そのものが、文化として広がっていくこと。
です。
誕生日に香りを調える。
旅の記憶を香りにする。
地域の祭りを香りで表現する。
結婚を香りで祝う。
季節の訪れを香りで迎える。
人生の節目に香りを残す。
そうした習慣が少しずつ生まれていったとしたら。
100年後の日本で、
「大切な節目には、想いを香りにする」
という文化が当たり前になっているかもしれません。
それは、とても長い時間の話です。
だからこそ、始める価値があります。
香りは、目に見えないからこそ
私たちは毎日、多くのものを残しています。
写真。
動画。
文章。
SNS。
データ。
けれど、人の記憶は、それだけでできているわけではありません。
夏の夕立の匂い。
冬の朝の空気。
祖父母の家。
昔好きだった人。
旅先の寺。
雨に濡れた森。
香りによって突然よみがえる記憶を、誰もが一つくらい持っているのではないでしょうか。
香りは保存できないように見えて、
実は、人の中に深く残ります。
だからこそ、
想いを香りに託す。
そこには、写真とも文章とも違う記憶の残し方があります。
そして、風に託す
「追風」という言葉には、
風があります。
香りがあります。
そして、人がいます。
香りは自分のところだけにとどまりません。
風に乗り、誰かのもとへ届きます。
しかし、いつまでもそこに留まるわけでもありません。
届き、
感じられ、
そして消えていく。
だから美しい。
古の人々が感じていた「追風」の美意識を受け取りながら、
私たちはそこに、現代の想いを重ねてみたいと思います。
季節を。
願いを。
祝いを。
記憶を。
人生の一瞬を。
香りにする。
そして、その香りを誰かへ渡していく。
それが、日本香雅文化協会がこれから育てていく
「追風」
です。
追風―想いを、香りに。
まだ始まったばかりの文化です。
だからこそ、この文化をつくるのは、協会だけではありません。
香りを調える人。
文化を伝える人。
地域で活動する人。
そして、香りを受け取る一人ひとり。
さまざまな人の手によって、追風は少しずつ姿を変えながら育っていきます。
いつの日か、
誰かが大切な節目を迎えたとき、
「この想いを、追風にしよう」
そんな言葉が自然に交わされる未来へ。
目には見えない想いを、
香りに。
そして、風に。
追風―想いを、香りに。




